福祉の仕事を始める前に、どうしてもやりたかったことがある。仕事に就いてから、どうしてもやりたくなった仕事がある。そんなとき、どうしていますか?
小島麻貴二さんは、全部をあきらめず、同時進行して日々を生きています。高校時代から音楽に熱中し、現在もベース奏者としてレコーディングやライブに参加。ずっと目指していた飲食経営に携わり、障害のある人をサポートする介護職員としてのライフワークも継続。飄々とした語り口からはうかがい知れない「一人三役」のエネルギーはどこから生まれてくるのでしょうか?
4回の連載で、じっくり聞いてみようと思います。
○●○ プロフィール ○●○
小島麻貴二(こじま・まきじ)さん/介護職員・ワイン食堂Margo経営・ミュージシャン
1971年生まれ。日本社会事業大学卒業。社会福祉主事の資格を取得し、卒業後、世田谷区社会福祉協議会の職員に。3年後、精神障害者のための作業所(就労移行支援・就労継続支援B型)に移り、菓子工場とカフェ・パイ焼き窯・パイ焼き茶房立ち上げに参加。その後、高次脳機能障害者の在宅生活を支えるリハビリテーション施設「ケアセンターふらっと」のアルバイトから正規職員に。現在は退職して週3日午前中勤務となり、夫人が経営する目黒区のワイン食堂Margoのワイン担当として日々お店に立つ。高校時代から続けてきた音楽も継続し、スタジオやライブのベーシストとしても活動する。
ケアセンターふらっとホームページ
ワイン食堂Margoホームページ
哲学科か福祉学科か。進路を定めて受験を
――小島さんは三足のわらじを履き続けていらっしゃいますね。最初に熱中したのは、音楽でしょうか?
そうです。高校時代は音楽ばっかりやっていました。このままずっとやっていきたい、「勉強なんか!」と斜に構えていたので、現役の大学受験は大失敗でした。
でも、やっぱり学んでいかないと、世の中で使い物にならないと思い直して。「何を学ぶか」となったときに、高2ぐらいで太宰(治)を読むじゃないですか。「生きているってなんて恥ずかしいものだろう」って。生きていれば人に迷惑をかけるし、ヘラヘラ笑っている自分の偽善を嘲笑われているようで、絶望するものですよね、思春期は。
――全員が太宰を読むわけではないかもしれませんが(笑)。
まあ、そうかもしれませんが(笑)。そこからずっと抱えていた、「偽善を抱えて生きていく自分」を見つめるために、哲学科を受けようと思うわけです。けれど、一方で社会課題を解決しようという気持ちも強くて。いろいろ調べて、福祉教育専門の大学、社会事業大学を受験し、なんとか合格しました。
入学したのは’91年ですから、介護保険制度もない頃です。当時は、「福祉」という言葉すら珍しかったんですよ。高校は学年500人いたんですが、男子は法学部とか経済学部とかばかり受けていて、福祉系を受けたのは3人だけという時代でした。
社会事業大学は、1学年150名ぐらいのこぢんまりとした大学で、その小ささが、自分の「マイノリティでいたい」という気持ちにちょうど合っていたのかもしれないですね。
――大学では福祉の何を専門にして学んでいたんですか?
大橋謙策先生(地域福祉の大家として知られる学者)の地域福祉を学びました。やさしい社会をどう作るかなど、福祉文化の醸成に関心がありました。身近な小さな世界での気づきを大事にしたいという気持ちもありましたね。
最近の演奏活動 シンガーソングライター村上紗由里さんのサポート<山本隆太さん(p)早稲田桜子さん(vi)村上紗由里さん(vo.g) 須田義和さん(dr)、小島さん>
――大学でも音楽活動をしていましたか?
もちろん。バンドやったりしていて、そりゃ、いつかプロになりたいと思っていましたよ。
だから、卒業しても、音楽活動をしながら仕事ができるところじゃないと、と。
長い髪を切らないで受けてやるって思っていたら、社会福祉協議会しかなくて、東京・世田谷区の社会福祉協議会に入職しました。当時は髪を切って就職するなんてロックじゃないぜ、とか思ってましたね(笑)。
音楽をやっていたことが地域福祉の幅を広げる
――社会福祉協議会での仕事は、まさに地域福祉ですよね。
そうですね。僕らの時代は社協でもデイサービスの事業を展開していまして、新人の頃は、デイサービスの職員をやっていました。地域の高齢者の方に楽しんでいただくために、地域性を踏まえたレクリエーションを考えたりするのは、おもしろかったですね。
ただ、うちの社協はボランティアさんを引き込むのがあまり上手じゃなくて。その課題解決を僕が担当していたので、まずは世田谷のボランティア協会に協力をお願いして、いっしょにイベントを開催したりしました。
世田谷のボランティア協会は、規模も大きいし、訪問介護や児童福祉も含め、活動の幅がものすごく広い。福祉事業部として、高次脳機能障害の方のリハビリテーションの場、「ケアセンターふらっと」も有しています。
当時の施設長・和田(敏子氏。現相談員)と知り合い、その福祉に対する熱い思いに触発されて、福祉のありかたなども、学ばせてもらいました。
レコーディングに参加したアルバムの一部 絵本作家荒井良二の音楽CD「どこからどこまで いつどうやって」など
――社協時代は、音楽活動を続けていたんですか?
はい、ありがたい職場でしたね。
しかし、ボランティア協会を通してパイ焼き窯という、精神障害の方のための焼き菓子工房の所長と知り合いになりまして。パイ焼き窯が、2施設目となる「パイ焼き茶房」というカフェを立ち上げるということで、誘っていただきました。もともと食にはとても興味があったので、3年いた社協を退職してそちらに移りました。
カフェの立ち上げと運営は、食を通して福祉文化の担い手になれる、というところがうれしかったですね。
――「ここで音楽、福祉、飲食と3つの同時進行と融合」という環境がそろうんですね。
もちろん、パイ焼き茶房は自分の店ではないので、自由にやるわけにはいきませんけれどね。
ライブ活動を続けていたおかげで、そちらから出会った人たちもどんどん増えて。絵本作家の荒井良二さん、スズキコージさんなどに、茶房のギャラリー展示に協力してもらって、ギャラリー・カフェみたいなことをやったり。
そんなことで、地元の方にも何気なくカフェに入っていただけ、精神障害の方と触れ合うきっかけになったかな、とも思いますね。
ただ、この時期、カフェの立ち上げも力を注ぎましたが、バンドをかけもちしてライブ活動をしたり、レコーディングに呼ばれて演奏したりと、音楽のほうもかなりやっていまして。いつしか音楽の仕事でいただくギャラが、福祉でいただく報酬を超えていったんです。
そうなると、「これで終わりたくない、一回、音楽に絞って勝負したい」と思うようになりますよね。それで、3年いたパイ焼き茶房も辞めて、メジャーデビューを目指すわけです。
ほかのアーティストのライブやレコーディングに参加しながら、デモテープを作って、持ち込んで。CDが売れていた時代ですし、すでに業界にも知り合いがたくさんいたので、「音楽でやっていこう!」という気持ちが一番高まっていた時期でもありますね。
ただ、ミュージシャンというのは、ライブは夜が多いし、昼間は意外に暇してるんです。そうしたら、和田が、「うちでバイトしなさい」と。これが、今に続く「ケアセンターふらっと」での、勤務の始まりでした。
次回は、「ふらっと」での働き方と自身の飲食店を経営する経緯を中心にお伝えします。