福祉・介護の世界で、情熱を持ってキラキラと輝いて生きている「情熱かいごびと」。
有料老人ホームで介護職の仕事をしつつ、クラウン(道化師)として利用者のみなさんに愛と癒しを与えている篠田佳明さんのインタビュー、第2回目です。クラウンや介護の仕事にのめり込む原点を語っていただきました。
○●○ プロフィール ○●○
篠田佳明 (しのだ よしあき) さん
1988年10月18日生まれ。幼少の頃から「人の役に立ちたい」という信念を持ち、介護施設のボランティア活動などを重ねる。立教池袋中学・高校から立教大学コミュニティ福祉学部福祉学科に進学し、クラウンとして活動するボランティア・パフォーマンスサークル どりぃむ・ぼっくすに所属、代表に。
卒業後は介護施設で職員をしながらクラウン介護士に。依頼があれば全国の福祉施設や病院などでクラウニングを行う。
https://www.facebook.com/clown-yoshi
*掲載内容は取材時(2014年)の情報となります。
高齢者施設でのボランティアで泣いた
福祉の道に目覚めさせてくれた引率の先生は、篠田さんにとっての恩師。
――篠田さんは、「正義の味方」になって世界平和を実現しようと決めたわけですが、それが福祉に結びついた原点はどこにあるのでしょうか?
念願かなって立教池袋中学に入学したその年に、夏休みのワークキャンプの募集があったんです。群馬県の老人ホームに滞在し、清掃や窓ふきなどのボランティアを有志で行うものです。僕の通う中学は、高校までの6年間を一貫して教育しているので、高校生と一緒にキャンプを行います。
単純に行きたい!とまず思ったのと、これは自己啓発になるのでは、と考えて自分から参加を希望しました。
中1で参加するのは僕だけだったので、引率の先生も親も心配していたようですが、皆さんのおかげで、とても有意義に過ごせましたね。
もともと僕はおばあちゃん子。休みの日は、朝食を食べると近くに住む祖母の家に遊びに行き、近所に住んでいるいとこたちと遊ぶのが楽しみでした。
祖母と話をし、祖母が作ってくれた料理を食べることもうれしくて。だから、高齢者の方と接することにも、興味がありました。
車椅子を押す高校時代の篠田さん。
――では、ワークキャンプもうまくいったのですね。
いえ、それが、いざ接しようと思ったらうまくできなくて…。
最初に触れ合ったのが、特別養護老人ホームの高齢者の方々で、重度の病気の方が多かったのです。会話もままならない方が多く、「おじいちゃん・おばあちゃんたちとたくさん話をして来よう」という意気込みと現実の違いに、うちのめされました。
今思えば、大人の介護職でも会話をするのが難しいような方々だったのかもしれませんが、理想を描いていただけに、挫折も大きかったです。悔しくて泣きました。
けれど、そんな悩みや挫折を夜のミーティングで告白したら、先輩たちからあたたかい励ましやアドバイスがたくさん返ってきました。
言葉で会話ができなくても、笑顔で接すればいいのだと思えるようにもなって。このときの体験が自分に大きな影響を与え、福祉を身近に感じるようになりましたね。その後卒業し、大学1年まで、ずっと毎年活動をしてきました。
どぶ川の強烈な悪臭は今でも忘れられない記憶。
――海外でもボランティア活動をしたのですよね? そのときはどんなことを感じましたか?
中学3年から、フィリピンへの薬品支援ボランティアを始めました。学校の文化祭でバザーを開催し、その収益を支援団体に送って薬に変えて小学校の保健室へ送ってもらうのです。
フィリピンは貧富の差が激しい国で、特に山村地域の小学校では、病気になったり怪我をしても医者にかかることができないし、薬もない、ただ横になっているだけという子どもたちがたくさんいます。そんな子どもたちの命をつなぐために、薬を送る活動です。
薬といっても、胃腸薬や風邪薬、絆創膏など、日本では家庭に普通にある薬です。小学校の近くに住んでいる大人たちも、薬を求めて保健室を訪ねるという話も聞いたことがあります。
高3のときには現地も訪ねました。そこでまた、ショックを受けたのです。
支援していた小学校の他にも、スラム街へ行ったのですが、訪れた場所は、想像以上に厳しい環境でした。海辺の今にも崩れそうな掘っ立て小屋で、おなかをすかせながら生きている子どもたち。近くにはどぶ川が流れ、衛生状態も本当に悪い。でも、子どもたちはニコニコ笑っているんですよね。生まれたときからこの環境しか知らないから……。
でも、僕らは昼間、そこで子どもたちと遊ぶボランティアをしていても、夜はホテルの清潔なベッドで寝て、おいしいものを食べる。これでいいのか、もっといい支援はないのかと、この矛盾は何なのかと考え込んでしまって。
そんな環境でもフィリピンの子供は天真爛漫で元気!
日本は国としてフィリピンに経済的な援助はしているけれど、お金を貸すだけです。フィリピン側は、お金を借りたら返さなければなりません。なぜ、寄付にしないのか、と怒りがわいてきます。
けれど、じゃあ、寄付すればいいのかというと、今度は「ただお金を差し出すだけでいいのか?」という疑問が湧いてきます。一時的にお金で解決しても、根本的な問題解決にはなりません。
ではどうしたら根本的な解決になるのか……。いっしょに現地に出向いた仲間たちと、夜な夜な激論を闘わせるけれど、答えは出ません。
でも、だからといってあきらめたり、やめたりすることはできなかった。
現実を知った者として、やらなければいけないことがある、と思ったのです。ならば、もっと福祉を勉強しよう。知識を得て、体験も得て、自分に何ができるか、考えてみよう。そんな思いで、コミュニティ福祉学部に進学しました。
――クラウンの技術を本格的に学んだのは、大学に入ってからですか?
はい、大学のサークル、どりぃむ・ぼっくすに所属しました。中1から参加していたワークキャンプで、4つ上の先輩がジャグリングを披露していたんです。大学にそういうサークルがあることを知り、絶対に入ろう! と高校のときから決めていました。
クラウンになり、ジャグリングやパントマイム、バルーンアートなどのパフォーマンスを福祉施設で披露したり、地域交流に役立てたり。クラウニングで社会とつながっているという実感が持てるサークルでした。
――やがて、クラウンのカリスマ的存在のパッチ・アダムスを知り、ますますクラウニングにのめり込んでいくのですよね?
はい。もう自分とクラウニングを引き離して考えることなどできません。それほどに大きな影響を受けて、今に至ります。
次回、映画でも有名なパッチ・アダムスとの出会い、社会人になっての活動に続きます。